骨法沼男のプロ格調査報告書

骨法という沼にハマったプロレスや格闘技を中心とした潜入調査員による報告書

K-1影の最強男はブレーキの壊れたダンプカー マット・スケルトン【格闘技外国人モンスター列伝 第2回】

あらゆるジャンルの格闘技界の新旧外国人モンスターの格闘人生を取り上げる連載「格闘技外国人モンスター列伝」。二回目はこの選手を取り上げることにした。

 

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"大英帝国の不沈艦"マット・スケルトン

 

 

1999年代後期から2000年代前期にかけてK-1で活躍したイギリス人キックボクサー。ピーター・アーツアーネスト・ホーストサム・グレコといったK-1トップファイターを大いに苦しめた猛者である。

 

191cm 117kgの巨漢・スケルトンの強さはまずは相手との距離を詰めて、インファイトで圧力をかけてくるパワープレイ。蹴り足を掴んで殴りかかる、軸足を刈り払うといったムエタイ戦法を繰り返して相手のスタミナを奪うのだ。またどんなに攻撃を受けても倒れない打たれ強さを誇る。しかもパンチ力もある。とにかく相手にとって非常に厄介な選手だった。まさに相手の心を折る怪物だった。タイプは違うが彼はスタン・ハンセンのようなブレーキが壊れたダンプカーである。

 

1967年1月27日イギリス・ベッドフォードシャーベッドフォードで生まれたスケルトンは元々はバーテンダーとして働き、その一方でキックボクシングのリングに上がっていた。実はかつて第二次UWFが「イギリスにとても強いキックボクサーがいる」という評判を聞きつけてオファーをかけてことがあったというが、最終的には知名度の問題から来日は見送られた。

 

彼はプロ・アマも含めて無敗というレコードを残し、1998年4月にK-1に初来日を果たす。 南アフリカヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤニュージーランドレイ・セフォー、日本の佐竹雅昭を破り、その年(1998年)のK-1GPの出場権を得たスケルトンは一回戦で優勝候補の一人であるオーストラリアのサム・グレコと対戦する。グレコはパワーとスピリット、フィジカルを併せ持つファイター。そんなグレコを序盤パワーで圧倒。なんとスリップダウンの際に場外の本部席まで吹っ飛ばしたほどである。

 

そこに蹴り足を掴んで殴りかかる、軸足を刈り払うというスケルトンのスタイルを繰り返し、グレコのスタミナは消耗していく。だが3Rに入りグレコの右フックが入り形勢逆転していく。そこからコンビネーションでスケルトンを7コーナーに追い詰めるが、彼は倒れない。何発のパンチが入ってもだ。どうやったら倒れるのか分からない。

 

だが最終の5Rで何発も重ねたローキックによって、スケルトンは遂にダウンをしてしまい判定負けを喫する。だがスケルトンはその圧力と打たれ強さを満天下に示したのである。

 

 その後もトップファイター達を苦しめたスケルトンだったが、その闘い方が見破られてきたのかジェロム・レ・バンナフランシスコ・フィリォにKO負けを喫している。

 

だがそれでも実力が認められていた彼はK-1に継続参戦してきた。ここでスケルトンの本領発揮したのが2001年6月16日、K-1ワールドGPメルボルン大会トーナメント決勝でのアーネスト・ホースト戦。序盤はホーストのペースだったのだが、途中にアクシデントでホーストがまぶたをカットしたことにより、スケルトンは一気にKO狙いにラッシュを仕掛ける。いつものムエタイ殺法ではなくどんどん前に出てパンチを繰り出すスケルトンにメルボルンのファンは大歓声。終盤にはダウン寸前まで追い込むも、判定で敗れた。

 

ホーストに敗れ、敗者復活戦にも敗れたスケルトンは2001年11月のPRIDEでなんとK-1代表としてMMAに挑戦し、トム・エリクソンと対戦するも、ギブアップ負け。そして2002年8月に極真会館主催「一撃」というイベントを最後に来日を途絶えた。

 

K-1から姿を消したスケルトンは2002年からボクシングに転向。BBBofCイングランドヘビー級王座、BBBofC英国ヘビー級王座、英連邦ヘビー級王座、WBU世界ヘビー級王座、EBU欧州ヘビー級王座などメジャータイトルには縁はなかったが数々のタイトルを獲得した。またメジャータイトルのWBA世界ヘビー級王座にも一度挑戦している。

 

ちなみに彼は今年で53歳。2014年を最後にリングに上がっていないが引退はしていない。「体が動く間は年齢を引退の理由にしたくない」ということらしい。

 

リング上では対戦相手から嫌がられる怪物だった彼はリングを下りると物静かで心優しき紳士だった。それはボクシング転向後も変わらない。ラフプレイの多いスタイルは「汚い」を通り越し「醜い」とまで批判されていたが、リングを下りると「とても誠実な人間」「勇敢で、ユーモアも理解する」と、その人柄を誉められ、練習熱心であることでも知られた。とにかく彼は不思議なファイターである。そしてどこか愛嬌があったりするも魅力である。

 

 1990年から2000年前期にかけてのK-1は世界中からあらゆるジャンルを代表するモンスターが集結した格闘技オリンピックのようだった。メインストリームで最強であり続けたのはピーター・アーツだったり、アンディ・フグだったり、マイク・ベルナルドだったり、アーネスト・ホーストだったり、ジェロム・レ・バンナかもしれない。だが、裏舞台の最強ファイターとなると個人的にはスケルトンの名を真っ先に浮かぶ。

 

アーツやホーストらが光なら、スケルトンは影だ。

だが一試合だけかもしれない、一瞬かもしれない。

その影は一時的に光を飲み込む瞬間がある。

大英帝国の不沈艦と呼ばれた男の格闘人生は光と影が表裏一体であることを我々に教えてくれるのである。

 

 

 

 

格闘技界の強すぎた裏番長 トム・エリクソン【格闘技外国人モンスター列伝 第1回】

1今回は我輩は本格的な連載というものに挑戦してみようと思っている。

題して「格闘技外国人モンスター列伝」。

あらゆるジャンルの格闘技界の新旧外国人選手の格闘人生を取り上げる連載である。日本格闘技界には数多くの外国人モンスターが来襲してきた。そんな選手達にスポットを当てることにしたのだ。ちなみにモンスターと題名に入れたのは、日本人に比べると外国人は基本的にフィジカルが違うと言われていて、例えその選手がテクニシャンタイプだったとしても、スキルはモンスター級だとしたら取り上げるかもしれないので、決してパワーだけを特定して取り上げるわけではない。

 

 

さて第1回の「格闘技外国人モンスター列伝」で誰を取り上げるのかである。これは本当に悩んだ。候補はたくさんいたのだが、我輩はこの選手にした。

 

”白鯨”トム・エリクソン

 

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193cm 133kgの頑丈な巨体、レスリングで世界トップクラスの実力、しかも巨体の割りに俊敏で打撃にも自信があり、あまりにも強すぎるがゆえになかなか対戦相手が見つかなかったという逸話を持ち、一部からは最強説が語られている。

 

我輩が彼の名を知ったのは格闘技通信だった。UFC創設して数年が経ち、世界各地でさまざまな大会が開催されていた。当時のMMAは、NHB(ノー・ホールズ・バード)と呼ばれていてグレイシー柔術を中心として柔術、プロレス、キックボクシングといったジャンルの猛者達、タンク・アボットのようにストリートファイト自慢が入り混じった世界。そこにレスリングの五輪代表クラスが参入してくるようになる。エリクソンもその一人だった。

 

ビッグキャット、白鯨と呼ばれたエリクソン1964年7月6日アメリカ・イリノイ州シカゴハイツで生まれた。少年時代からレスリング(フリースタイル)を始めた彼はその才能を開花させ、全米ジュニアカレッジ選手権優勝、NCAA優勝などの実績をあげてきた。だがオリンピックには縁がなく、全米選手権優勝することはなく、世界大会で4位入賞がレスラーとしてベストキャリアだっ。1997年からパーデュー大学レスリング部でアシスタントコーチとなり、2015年よりリヨン大学レスリング部のヘッドコーチとなる。レスリングに関しては選手より指導者として長年携わってきた。

 

 そんなエリクソンは1996年創設されたトップクラスのレスリング選手で構成されるrAwチームの創設メンバー。rAwでNHB用のトレーニングを積み1997年にMMAデビューを果たす。

 

1997年6月15日、ブラジルで開催されたBrazil Open '97トーナメントに出場、決勝でケビン・ランデルマンと対戦し、KO勝ちを収め優勝する。1997年10月に「THE CONTENDERS」という組み技限定の格闘技イベント)で当時リングス・ジャパン高阪剛と対戦し、体重差とレスリングでの経験を活かし終始ポジショニングで優位に立ちで判定勝ちを果たす。1997年11月29日、VALE TUDO JAPAN '97で初来日。エド・デ・クライフと対戦し、TKO勝ち。

 

エリクソンの強さはレスリングで培ったフィジカルとポジショニングであり、常に上になり圧力をかけて、相手のスタミナを奪ってしまう。そこにスピードが備わっているのだ。またその勝ち方も相手の心を折るものだった。

 

そこから二年後の1999年11月にPRIDEに参戦し、後に大親友となるゲーリー・グッドリッジを破っている。翌年にノールールの世界最強トーナメントPRIDEGP2000を開催することになっていたため、エリクソンもそのメンバーに名を連ねるものだと思われていたが、彼の名はなかった。

 

実はエリクソンは後に「マーク・ケアーPRIDEで自分との対戦を避けたため、トーナメントに招待されなかった」と語り、このトーナメントに出場したグッドリッジも「ケアーとリコ・ロドリゲス(トーナメントに参加していないがこの頃のPRIDEに参戦していた格闘家)はエリクソンと戦わないことを契約に明確に入れていた」と証言している。

 

原因はシンプルに強すぎるからだ。強いことはいいことであるが、強すぎると対戦相手が見つからないという弊害が生まれたりするのだ。

 

 その後エリクソンは2000年10月のPRIDEで"テキサスの暴れ馬"ヒース・ヒーリングと対戦し、チョークスリーパーで敗退する。これがMMA初黒星となった。

 

ここからエリクソンは度々PRIDEに参戦し勝利しているが、その相手はMMAのトップファイターではない。なぜなのか?

 

その理由も強すぎるからだ。ヒーリングに敗れたとはいえその強さは本物だ。実はアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラエメリヤーエンコ・ヒョードルセーム・シュルトといったトップファイターたちが対戦を見送ったというエピソードがある。表舞台で活躍するモンスターたちが敬遠した男、裏番長として君臨する男…それがエリクソンだった。

対戦相手の拒否やマッチメイクの難航でMMAでカードが組まれなくなったエリクソンはなんとK-1に参戦する。総合格闘技から立ち技格闘技の世界へ。結果は南アフリカのヤン・ノルキアに勝ったが1勝3敗に終わっている。

 

その後、2005年からMMAに復帰するも40歳を越え全盛期を過ぎていたエリクソンは負け続け、MMAの世界から足を洗った。

 

「世界最強の男は誰だ?」

 

このようなワードで開催する格闘技の大会はたくさんある。格闘技で強さを追い求めると「最強の男」になりたいという目標が生まれたりする。だがエリクソンのように強すぎると世界最強トーナメントから敬遠されるケースがある。

 

言葉がきついかもしれないが、例え強かったとしても、それを証明する舞台がなければ、その強さは自称にしかすぎない。

 

その悲しい現実を格闘技界の強すぎた裏番長トム・エリクソンの格闘人生は教えてくれる。

 

我輩からの報告は以上であーる!!

 

 

 

世界空手道連盟・士道館についての報告②「男が憧れる男たち!猛き士魂の空手家列伝 大石亨・佐藤堅一編」

前回から我輩は世界空手道連盟士道館について報告をまとめ、「猛き士魂の空手家列伝」を題して、士道館で活躍した男達を紹介している。今回は二人の空手家を取り上げることにしよう。まず、一人目はこの男であーる!

 

"怖い顔のテクニシャン"大石亨

 

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大石亨は空手とキックボクシングの両ルールで日本王者に輝いた人呼んで”怖い顔のテクニシャン”である。士道館全日本大会無差別級で実に4度制覇し、MA日本キックボクシング連盟ヘビー級王者となった。また士道館代表としてK-1に参戦し、K-1 JAPAN GP 1998第3位に輝いたことがある。

 

185cm 98kgと体格にも恵まれた大石は20代前半から士道館全日本大会で上位に進出し、士道館期待の新星として評価されてきた。空手家として実績を残す一方で老舗キックボクシング団体であるMA日本キックボクシングにも参戦し、グローブマッチの経験も積んできた。士道館は「立ち技世界最強」K-1を立ち上げた正道会館と共にグローブマッチに早くから対応してきた。実は士道館総本部には若虎寮という人材育成機関があり、その寮生になると空手とキックボクシングを修行するという。大石もこの若虎寮出身なのだ。大石は空手とキックボクシングのトレーニングを並行し、根性論だけではなく、技術も磨いたので、彼は”怖い顔のテクニシャン”と呼ばれたのである。

 

だが士魂の持ち主である大石の信条は真っ向勝負。特にK-1JAPANでは長らく武蔵に次ぐナンバー2として活躍した中迫剛とはライバル関係だった。中迫戦では魂と技術と織り交ぜた大石スタイルで中迫と白熱の攻防を繰り広げてきた。一度は接戦の末、勝利したことがある。

 

K-1時代には武蔵、中迫剛天田ヒロミらと共にトップファイターとして、K-1 JAPAN を盛り上げてきた。元々は士道館所属だったが、日進会館に移籍している。

現在は東京・狛江に大石キックボクシングクラブを経営している。現役時代に恐れられたその風貌は今や柔和な笑顔に包まれている。

 

それでは二人目はこの男であーる!

 

"魔人"佐藤堅一

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さて、二人目に紹介するのが士道館・若虎寮出身でキックボクサーとして活躍し"魔人"佐藤堅一。

 

佐藤は若虎寮で空手とキックボクシングを学び、キックボクサーとしてMA日本キックボクシングのライト級で頭角を現す。MAキックでは看板ファイターとして活躍し、ライト級、スーパーライト級ウェルター級の三階級制覇を果たいしている。また、1997年11月9日東京ドームで開催された「K-1JAPANフェザー級GP1997」に出場し、当時シュートボクシング村浜武洋と激闘の末、敗れ準優勝に終わったが、「魔人・佐藤」の存在を格闘技界全体に名を広めた。

 

現在は士道館ひばりヶ丘道場の師範として、後進の指導や、士道館主催の空手大会の運営に当たっている。キックボクサーとして活躍した佐藤が帰った故郷は士魂の空手だった。

 

今回は奇しくも士道館人材育成期間・若虎寮出身の空手家を取り上げたが、この若虎寮の実体が気になってきたので、引き続き調査することにして、また発表させていただければと考えている。

 

この士道館特集は、今回で一旦終了。若虎寮や他の士道館戦士、士道館の魅力についてはまた改めてご報告させていただくことにして、我輩は次の調査に挑むことにした。

 

我輩からの報告は以上であーる!!

 

世界空手道連盟・士道館についての報告①「男が憧れる男たち!猛き士魂の空手家列伝 村上竜司編」

前回、我輩は掣圏道について報告させていただいたのだが、今回いよいよ骨法について綴るのかと思いきや、なんとある空手団体と取り上げることにした。

 

世界空手道連盟士道館であーる。

 

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そもそも士道館とはどんな空手団体なのか?

 

士道館(しどうかん)は、埼玉県所沢市美原町に総本部を置く空手団体。正式名称は世界空手道連盟 士道館(せかいからてどうれんめい しどうかん)。1978年に設立。現在は世界68カ国に支部を展開している。
極真会館在籍時に「城西の虎」と呼ばれた、第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会(主管:極真会館)2位の添野義二が興した。空手の他にキックボクシング、総合格闘技も指導している。世界空手道連盟 (WKA) 、マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟に加盟している。一時期は、亜細亜民族同盟初代会長柳川次郎がコミッショナーたる日本IBFにも加盟し、国際式ボクシングにも選手を出していた。
早くから、顔面攻撃や組み技に力を入れた空手団体でもある。試合でも、グローブ空手と掴み(3秒間)・首相撲・投げ技・関節技・絞め技、そして寝技(5秒間)が認められたフルコンタクト空手の二つがある。(フルコンタクト)空手を名乗る団体で、一番制約の少ない試合ルールを採用しているのが特徴。また、海外に多くの支部を抱え、大会も積極的に開催している事から、国によってはフルコンタクト空手ルール=士道館ルールを指すケースもある。
ストラングラーズのジャン=ジャック・バーネルは士道館空手ロンドン支部長。マイケル・ジャクソン士道館名誉五段。
プロレスラーの三沢光晴川田利明も若手時代は士道館で練習に励んでいた。添野は三沢にエルボー・バット、川田にキックと、両選手の代名詞である技を、それぞれ伝授している。
士道館には空手道場とキックボクシングジムを兼ね備えている道場がある(士魂村上塾、橋本道場、植野道場、児玉道場など)。空手とキックの部門は基本的に分離されているが、出稽古などの形で双方の修行をすることは可能である(キックから入門した人間が空手を習う場合は、当然空手の基礎を一から学ぶことになる)。正道会館は空手の上級者しかキックの指導を受けられないことになっており、この点が異なっている。
士道館の師範や師範代には、実際にプロのキックボクサーとしての経験がある人物も少なくない。
wikipedia/士道館

 

士道館といえば空手だけではなくプロレスやキックボクシングなど他ジャンルにも積極的に進出し、早くからグローブマッチにも対応した空手家が多く、まさしく全方位空手外交ともいえる。

 

その一方で添野館長をはじめ個性的な男達が集う空手団体という印象が強い。そこで士道館の精神「士魂(しこん)」を体現してきた猛き空手家達を紹介することにしよう。彼らこと、男が憧れる男たちなのだ。一人目はこの男である。

 

”男道伝道師”村上竜司

 

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まずは士道館といえばこの伝説の男・村上竜司を語らなければいけない。まるでVシネマの任侠作品に出てきそうな面構えから日本一強面の空手家と呼ばれ、空手だけではなくグローブ空手、キックボクシング、K-1、プロレスラーとの異種格闘技戦などあらゆるフィールドに参戦し、士道館の名を高めてきたのがこの村上である。グローブ空手の日本選手権であるトーワ杯では、プロレスラーの高橋義生柳澤龍志を得意の左フックで破ったことにより、プロレスラーキラーとも呼ばれた。現在は士道館最高師範・士魂村上塾塾長として後進の指導に当たり、組織を支えている。

 

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そんな村上の名勝負といえば、1997年7月20日K-1ナゴヤドーム大会での角田信朗戦と2001年1月30日K-1松山大会での黒澤浩樹戦。どちらも同世代の空手家対決である。

 

角田戦実現の経緯は長いドラマがある。かつて互いに空手家として黒帯になるまえの空手の新人戦で激突したことがあり、その時は角田が勝利。その後角田は常勝軍団・正道会館の斬りこみ隊長としてあらゆる空手大会に参戦し、好勝負を展開。その後、総合格闘技リングスにも参戦していた。一度は引退しレフェリーや後進の指導に当たっていた角田に対戦要望をし続けてきたのが他流試合で結果を出し、1994年に士道館世界大会重量級を制した村上。角田は村上の要望に応えK-1で現役に復帰。その熱き試合で会場を盛り上げてきた。そして二人の思いが結集したのが1997年の一騎打ち。互いに空手の道着で闘い、正面から打ち合った二人。試合は判定で角田が勝利。男泣きに暮れる角田を村上がそっと抱きしめる感動的な幕切れだった。ちなみに二人は後日、義兄弟の盃を交わしたという。

 

 そして2001年の黒澤戦は村上の引退試合として組まれた。対戦相手は村上は同世代の黒澤を指名する。黒澤はかつて極真会館で数々の伝説を残し、ニホンオオカミと恐れられた男。村上からすると黒澤は同世代ながら尊敬できる格闘家だった。黒澤が在籍していた時代の極真会館が他の空手団体とは交わらない鎖国主義(極真が主催する他流派の参加を受け入れるオープントーナメントは別)だったため、村上との接点はほぼなかったが、黒澤が独立したことで状況が変わり、K-1に主戦場を変えてきたのだ。黒澤は次々とK-1で名勝負を連発し、ファンから熱い支持を集めていた。

 

試合は壮絶だった。互いに一歩も引かないインファイトに館内は熱狂。3Rに村上が右アッパーでダウンを奪った。魂の打ち合いに両者フラフラになりながらも最後まで闘い抜いて試合終了、引き分けに終わった。

 

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ちなみに村上の格闘人生が映像化されたドラマがあるという。

それが「龍司」である。この作品を制作したのがVシネマのヒットメーカーであるミュージアム(現・オールイン エンタテインメント)だった。

彼の人生を実写化するには最適のメーカーである。

 

龍司 K(キング)-1を目指した男 [VHS]

龍司 K(キング)-1を目指した男 [VHS]

  • 発売日: 2007/11/25
  • メディア: VHS
 

 

 かつて村上の試合をまとめたVHSで「男道・村上竜司」という作品があったが、この「男道」こそ彼の格闘人生を象徴する言葉である。男が男としてどう生き、どう闘い、どう勝ち上がり、どう散っていくのか…。そんな男の生き様を凝縮したかのような男が村上なのである。

 

 次回も士道館特集「猛き士魂の空手家列伝」第二弾をお送りする予定である。

 

我輩からの報告は以上であーる!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

市街地実戦格闘技・掣圏道についての報告書③「掣圏真陰流とリアルジャパンプロレス」

設立当初は大々的に興業展開していた掣圏道だったが、次第に興業数を減らしていく。そして掣圏道掣圏真陰流に名を改め、より武道の道を突き進むことになる。

 


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また2010年には「武道 掣圏」という大会を開催、ロープなし正八角形のリングでの変則総合格闘技ルール(攻撃が無ければブレイク、3秒以上の抑え込みで制圧というポイントが入る)で真の武士道精神を持つ強者が集結した。

 

またロシア軍団が抜けた掣圏真陰流を支えた掣圏道四段で師範を務める桜木裕司はあらゆるリングに上り、掣圏真陰流の看板を高めてきた。キックボクシング、パンクラスやDEEPの総合格闘技だけではなく、素手あり頭突きありのMMAパンクラチオン」にも積極的に参戦し結果を残してきた彼は「現代に生きるサムライ」と呼ばれている。

 


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武道として掣圏真陰流を確立しようとする一方で2005年に佐山聡はプロレス団体「リアルジャパンプロレス」を旗揚げする。リアルジャパンではプロレスの試合の中に掣圏真陰流の試合も組まれたこともあった。

 


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リアルジャパンは今のプロレス界において希少価値となったストロングスタイルを全面的に押し出す団体である。様々なタイプのレスラーが集結するが、この団体はたまに奇跡的なマッチメイクや好勝負が生まれることがある。

 

佐山が扮する初代タイガーマスクで語ると丸藤正道飯伏幸太といった21世紀の天才レスラーとの一騎討ちや天龍源一郎とのレジェンド対決、鈴木みのる大仁田厚との抗争などを展開してきた。また二代目タイガーマスクこと三沢光晴との生涯唯一の対戦(タッグマッチ)も実現している。

 

またリアルジャパンの至宝であるレジェンド・チャンピオンシップを巡り、船木誠勝VS関本大介船木誠勝VS大谷晋二郎船木誠勝VS藤田和之といったこの団体でしか実現しないであろうシングルマッチが実現している。

 

武道として掣圏真陰流を極める道を進む一方で、自身の源流であるプロレスを復興させるためにリアルジャパンプロレスを展開する佐山聡。恐らく彼はひとつの道を進むより、二つの道をバランスを取り歩いていきたいタイプなのかもしれない。

 

最近佐山は体調不良もあり、公の舞台に出る機会が減っているが、プロレスと武道の両立は佐山にしかできない荒業だと思われる。だからこそ彼にはもう一度立ち上がってほしいと切に願っている。

 

最後に佐山聡総裁と掣圏真陰流に押忍!

 

今回の我輩からの報告は以上であーる。

 

 

市街地実戦格闘技・掣圏道についての報告書②「SAボクシング(アルティメット・ボクシング)とロシア軍団」

掣圏道は、創立当初は新興武道でありながら興業との両立を測ろうとしていた。興業の目玉としていたのがSAボクシング(アルティメット・ボクシング)である。


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SAボクシングのSAとは何か?SAは(掣圏道協会・SEIKENDO ASSOCIATION)の略。ルールは立った状態でのパンチ・キック・投げ技が有効。寝た状態では、パンチのみが有効。ただし関節技は反則なので、立ち関節技を認めているシュートボクシングとは異なり、またマウントパンチは認められているが、サッカーボールキックやフットスタンフは反則である。

 


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このSAボクシングの主力となったのが、創設者の佐山聡が連れてきたロシアの格闘家達。キックボクシング、サンボ、レスリング、ボクシング、柔道、空手、アブソリュート(ロシアでいうところの総合格闘技)などあらゆる格闘技の猛者が、北海道にある廃校になった教室を改良した怪物養成機関・虎の穴(タイガーズ・デン)に集めれていた。かつてアントニオ猪木新日本プロレスソ連レスリングの強豪をプロレスに転向させ、レッドブル軍団を結成させた。世紀末に入り、今度は佐山がプロデュースのロシア軍団が誕生したのである。1989年に打ち上げられた格闘衛星は10年後にも虎の名の元に打ち上げられた。

 

掣圏道は創立当初は北海道を中心に巡業を展開していた。SAボクシングやアブソリュートで勝っていった選手はその後の興業にも出場していたが、不甲斐ない試合をして敗れた選手はロシアに強制送還されていたという話もあるので、ロシア軍団、なかなかのスパルタ機関なのだ。

 

掣圏道ではニープレス(ニー・オン・ザ・ベリー)からのパンチを推奨していたのだが、ロシア軍団の多くの男達は普段から慣れているマウントポジションになってからのパンチを使っていた。

そんな中で一人、ニープレスを使いこなし、巡業で連戦連勝を誇っていたのがスルタンマゴメドフ・カフカズという選手。キックボクシングやアブソリュートを活躍した選手で、佐山から認められていた彼はミスター掣圏道と呼ばれていた。アブソリュートでは当時はPRIDEのトップファイターの一人だったイゴール・ボブチャンチンに勝ったことがあると言われていた。

 

 

1999年10月2日に掣圏道は東京に進出。なんと有明コロシアムでビッグマッチを開催する。その開会式で佐山はこんな挨拶をしている。

 

「私はよく人から10年早いと言われることはあります。今日の会場は1999年ではなく、2009年10月2日だと思ってください!」

 

10年先の格闘技が見れる。一部の格闘技マニアは掣圏道に幻想を抱いた。

 

この有明大会で掣圏道はなんと四つ(スーパーヘビー級、ヘビー級、ライトヘビー級、ミドル級)の階級世界王者決定戦を組んでいた。だが、その王者決定戦に日本人はおろか著名な外国人ファイターは出場せず、格闘技マニアなら知っているかもしれないオランダのウィリアム・ロスマーレンやボブ・シュクライバーくらいが出たくらいであとは実績はあるのかもしれないが日本では無名のファイターが多かった。

 

佐山が認めたロシア軍団大将カフカズはオランダのロスマーレンを破り、SWA(掣圏道世界協会)世界ヘビー級王者となる。

 


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ロシア軍団からはセルゲイ・グール、アースラン・マゴメドフ、マゴメド・マゴメドフ、シャミール・ガイダルベコフ、ボリショフ・イゴリ、アフメドフ・ズラフ、ポドリチャン・デニス、キルサノフ・アンドレイなどの戦士を輩出してきた。中には掣圏道からK-1やPRIDEに参戦した選手達もいた。

 

恐らくロシア軍団の格闘家達は強いのだが、団体のトップを取るという人達ではなかったように思える。だから彼らが主役のイベントではなく、まずは彼らがあらゆる団体に喧嘩を売ってから自主興業や彼らを主役の興業を打ったりするとまた違った展開があったのではと我輩は考えるのである。

 

 

SAボクシングからアルティメット・ボクシングに改名し、2000年6月9日になんと横浜アリーナ大会を開催し、PRIDE軍団と対抗戦を行っている。


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だがいつしか掣圏道の興業にロシア軍団の姿は消えていた。ロシア軍団が掣圏道から手を引くと掣圏道はより武道よりにシフトチェンジしていく。そして名を掣圏道から掣圏真陰流に改名、真の日本精神を復活させるために活動している。

 

 

さて次回は、掣圏道特集は最終回。掣圏真陰流と名を改め、さらにリアルジャパンプロレスを立ち上げた今の掣圏道について報告させていただく。

 

今回、我輩からの報告は以上であーる!

 

 

 

 

市街地実戦格闘技・掣圏道についての報告書①「1999年、掣圏道誕生」

はてなブログで調査報告をすることになった我輩。さて最初に何をテーマにした記事を書くのかであーる。

 

ここからは「あーる」を封印して真面目に綴ることにしよう。

 

初回に何を取り上げるのか。我輩は骨法という沼にはまった男なのだが、まだまだ知識は他の骨法クラスタに比べると浅い方がと思う。プロレスや格闘技を好きになった1990年代の我輩は客観的に骨法を捉えていたわけである。

 

骨法は武道であり、スポーツとは対極の世界観で生き、実戦を想定した格闘技である。実戦武道といえば、我輩は1999年に初代タイガーマスクこと佐山聡が立ち上げた掣圏道(掣圏真影流)が思い浮かぶ。

 

今回は掣圏道について書くことにしたのである。



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修斗で「打・投・極」の総合格闘技を確立した佐山が新たな桃源郷として創設したのが「市街地型実戦格闘技」という理念を掲げた新興武道・掣圏道だった。

 


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掣圏道の道着は独特でスーツ型の襟である。これはサラリーマンやビジネスマン、ボディーガードといった人達がもし暴漢に襲われた場合はスーツを着ているということを想定した上で作られた道着なのだ。さすが佐山、細部までこだわっている。また、掣圏道では挨拶や返事を空手の「押忍」を行う習わしになっているが、その形は空手とは違い敬礼なのだ。ここも佐山テイスト。

 


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この掣圏道では、柔術MMAで用いるガードポジションは使わず、常に相手の上になり、別の相手に襲われても立ち向かえるようにすることを想定としていた。市街地で複数を相手にした場合はマウントポジションでは返り討ちに合うとした佐山は掣圏道で推奨したのは著書の写真に用いられているニープレス(ニー・オン・ザ・ベリー)である。

 

ニープレスの状態で相手を封じておくともう一人が襲っていても対処できるというのが掣圏道創設時の佐山の理論だった。

 

今は武道に特化している掣圏道だが、誕生当初は興業の世界に果敢にも飛びこみ、巡業もこなしていた。SAアブソリュート(バーリ・トゥード)も敢行したり、佐山自身も初代タイガーマスクとして出場したプロレスも興業の一部門としてカードに組まれていた。

 

そして掣圏道を普及させるために佐山が考えたのは実際に興業として満天下に見てもらうことだった。彼は掣圏道の素晴らしさを競技というフィルターを通して伝えようとしたのだ。

 

それがマウントパンチや投げ有りのキックボクシングとも言える格闘技SAボクシング(アルティメット・ボクシング)である。

 

次回は、SAボクシングとこの格闘技の目玉となったロシア軍団について報告させていただく。

 

我輩からの報告は以上であーる!